動燃事故で問われる日本の原子力開発政策
市川富士夫(明治大学講師)
一昨年の高速増殖炉「もんじゅ」におけるナトリウム漏れ事故に続いて、今年の三月の再処理工場の火災・爆発事故の発生は、日本の原子力開発について数々の不信をもたらした。中でも次の三点は重要である。
(1)プルトニウム利用の主目的である高速増殖炉の実現性と安全性に対する不信
(2)プルトニウム生産の主要技術である再処理の安全性と信頼性に対する不信
(3)二つの事故を起こした動力炉・核燃科開発事業団(動燃)、およぴ、これを指導・監督してきた科学技術庁(科技庁)、原子力委員会、原子力安全委員会に対する不信
この三点は、プルトニウム利用を主要な柱の一つとする日本の原子力開発政策に対する不信を意味するものであり、国民の批判もここに集中しつつある。
政府は、再処理施設の火災・爆発事故後、原因調査と動燃改革という二つの委員会を科技庁に設置した。事故原因については、五ケ月を経た現在も明確な緒論を得ていないが、事故調査のあり方について次のような点が指摘される。
(1)事故調査委員会の構成員10名は科技庁が人選したものであるが、その主査ら4名は1990年以降科技庁の原子力安全技術顧問であり、それ以前にも主査ら3名は再処理安全技術顧問(主査が顧問会の会長〉として動燃再処理施設の安全審査に関わった時期もあった。
また、10名中5名が科技庁傘下の研究機関の現職または出身者で、他は、通産省と自治省(消防)の研究所から各1名、大学が2名、アスファルト協会1名となっている。このように、全体として科技庁の身内の委員会であり、公正な調査は期待できそうもない。
(2)この懸念を裏付けるような資科が6月11日の委員会に動燃から提出された。事故当事者である動燃が事故に関する情報を提供することは当然の義務である。「火災爆発の原因の検討について」と題する61ぺ一ジからなるこの文書は、事故原因についての特定のシナリオを提起したものである。しかし、このシナリオの大部分は動燃も認めているように推測からなっているいる。事故原因の当事者である調査は推定でなく客観性を重視するべきであるにもかかわらず、事故の当事者である動燃が委員会審議の経緯も踏まずにこのような文章を提出したことには疑問をもたざるをを得ない。
アスファルトと硝酸ナトリウムなどとの発熱反応、アスファルトと硝酸などの可燃性ガスの発生、再処理主工程で用いる、生成物などの有機化合物の混入が考えられるが、この内、有機化合物の混入は固化施設以前のプロセスの不具合につながる可能性がある。動燃の想定シナリオはこの点を回避する内容となっており、意図的なものを感じる。
(3)動燃は、事故の規模は国際評価尺度のレベル3と発表した。この尺度によるとレペル4以上が事故で、3以下は異常事象である。それでもレベル3は日本の原子力事故としては最大である。しかし、事故そのものは小さかったが動燃の対応の悪さのために事故が事件になったという見方もある。小さな事故か否かは現象だけでなく原因からもみるべきであり、その意味からも原因調査の客観性が求められる。
(4)再処理は実用科学であり安全性も確立してるという誤った認識が政府、科学技術庁、原子力委員会、原子力安全委員会、動燃などに強く保存し、これが事故発生の背景にある。動燃の事故隠しの動機ともなっているといわれている。このような認識の持ち主による事故調査は信頼しがたい。今後の再処理の動向を決めるためにも客観性と公正さの補償される第三原因審査がなされるべきである。
動燃に対する世間のきびしさに押されて科技庁は構成員からなる改革検討委員会(座長 吉川弘之前東大総長)を設置した。同委員会は
8月1日に「動燃の基本的方針)とい題する報告書を提出したが、その内容には以下のような問題点が含めている。(1)
4月18日、改革委員会第一回会合において近岡科技庁長官は、「動燃の存廃を含めて考えていかなくてはいけない」とする一方、「従来の政府の原子力政策についての議論はできない。政府の政策の枠の中で動燃がはたすべき役割を十分にはたしてきたのかについて議論するよう」要請した。同長官は別の場で「プルトニウム利用路線を中心とする核燃料サイクル政策は変更しない」と発言しており、改革委員にもこの線を念揮ししたわけである。報告書はこれを受けて「動燃に与えられた使命そのものの改変は、本委員会の目的に含まれない。…中略…すなわち検討の論理的帰結としてはあり得るが、使命について論じることを課題とはしないという立場をとる」と、まえがきにうたっている。
つまり、プルトニウム利用路繰の継続を前提とした親織の建直しに報告書の内容も限定されているのである。
(2)したがって、動燃は改親し、新たな特殊法人を組織するが、新法人では、高速増殖炉開発およびそれに関連する核燃科サイクル技術開発と、高レベル放射性廃棄物処理処分の研究開発を中核的事業として位置付けるとしている。報告書はこれらの事業は「実用化の張度が高く、経済性の推定も可能である」などと、およそ現実とかけ離れた評価をして、大量の原発設置とプルトニウム利用を柱とする従来の原子力政策の継続を保証するものとなっている。
(3)軽水炉燃料の再処理については「実用化という面ではほぼ完成しているが、部分的に修正することにより経済性の向上が期待されるもの」という認識で、東海専処理工場は六ケ所村に建設中の再処理工場の安定的操業まで運転を継続するという既定の方針をそのまま引継いだものとなっている。それ以降は高速炉燃料再処理の技術開発への活用を検討するなどと無責任なことをいっているが、とんでもないことである。
(4)その他、新型転換炉の開発は撤退、ウラン濃縮は民間に技術移転、海外ウラン探鉱は民間に移行、プルトニウム以外の核分裂性物質(マイナーアクチニド)も取出して高運炉燃料とする“先進的核燃料サイクル技術開発”は新法人でおこなうことが提起されている。
(5)相つぐ動燃の事故については、動燃のみならず、科学技術庁、原子力委員会、原子力安全委員会などの責任も重要であるが、これについてはほとんど言及がなく、事実上免罪されている。また、安全審査のあり方、国としての安全確保体制の不備など真に国民の要求している問題からは目をそらしている。
動燃の事故を契機にプルトニウム利用を柱の一つとする原子力政策の見直しを求める声が高まりつつある。この問題の重要性を考えるために、日本の原子力政策のルーツを遡ってみることにする。
(1)そもそも日本の原子力開発は米国の核戦略の変化にともなう外的要因に強く影響されて始められたものである。これに加えて・原子力関連産業の創出、電力企業の新たな利潤追求などの内的要因が背景にあり・中曽根康弘氏に代表される政治家の動きがこれを加速した。
(2)このような国民不在の動向に対して、広島、長埼、ビキニの被曝を受けた日本国民としては、核の軍事利用にまきこまれる懸念と平和利用における安全性への疑問が高まつ、原水爆禁止運動の盛上がりや日本学術会議における討議の中から、原子力平和利用の前提としての核兵器の廃絶と自主・民主・公開の三原則とが国民的合意として形成された。
(3)日本の原子力開発の方向は日米原子力協定により米国からの濃縮ウランの供給が保証され、これを燃稗として使用する軽水炉や使用済燃科の再処理施設、さらに、そこで分離されたプルトニウムもこの協定の制約を受ける。この協定では、米国の国家安全県障に対する脅威の著しい増大があると判断されれば濃縮ウランの供給は一方的に停止できる。したがって、自主の原則とはほど遠いのである。
(4)具体的な原子力政策は、日米を始めとする原子力協定との整合性を保ちながら、原子力委員会が「原子力の研究、開発及び利用に関する長期計画」として策定する。これは、ほぼ5年毎に改訂されてきた。
前述のように、日本の原子力開発政策は、軽水炉の大量建設とプルトニウム利用を軸とする核燃科サイクルの確立を主要な路線としている。事故のあった高速増殖炉と再処理はこの要ともいうべきものである。この部分の技術的破綻と安全性の不備が明らかになった以上、単なる動燃の衣替えですむものではない。飽くまでも既定の路緩にこだわるならば、軽水炉でのプルトニウム利用(プルサーマル)、「もんじゅ」の再運転、六ケ所村の核燃科サイクル関連の諸施設、プルトニウム含有燃科の製造などによる危険を一層鉱大することになるであろう。
核分裂の連鎖反応を人類の福祉のために利用する道を探ることは当然のことである。しかし、現在の原子力発電の技術体系は核兵器開発技術の転用であることを考えるならば、平和利用の名での開発が逆に軍事に転用されたり、未完成技術の安易な実用化により安全性が軽視されるようなことがあってはならないのである。
世界でも突糺ている原発の大増設とプルトニウム利用に固執する原子力開発政策を政府は抜本的に見置すべきである。